大阪 666(その1)
4月3日コロナ、大阪のコロナウイルス新規感染者数666人というニュースが一部で話題になっています。
何故一部でニュースになっているか。
それは666という数字出てきているからです。
666については後でご説明しますが、まずはこのニュースに対する受け止め方について。
666がどんな数字が知らないが(何か縁起の悪い数字らしい)、数字の縁起などこの21世紀では迷信であり、そもそもこんなことで騒ぐのが幼稚だ、と思っている人が大半でしょう。
もっとも、私はこのような人たちは典型的な5感人ではないかと思っていますが。
それに対して、666という数字が出た、ほら大変だ、吉村知事に対する天罰がくる、などと個人攻撃のような形で断定するのも、短絡的で危うい思考かと思います。
この事象について考察するについては、まず666という数字がいかなるものなのか、そのあたりを最初に抑えたうえで、この事象の意味合いを考えていく必要があるのではないでしょうか。
ではまず666についての私が知る限りの説明から(因みにガバラの解釈によりもっと深い意味もあるかと思いますので、ご興味のある方はご自身でお調べいただくことをお勧めします)。
この記述の中味を簡単かつやや乱暴に要約しますと(ですので原文とは別の表現になりますが)次のようになります。
「人々が退廃しきった(現在の東京や大阪のような大都市を連想させる大バビロンという表現が使われています)末法に十本の角と七つの頭のある獣が現れ、人々の支持を受け人々を支配する。
この獣は竜のような者の助けにより(具体的にはこの竜は、人々に獣を拝ませ、獣の前で行うことを許されたしるしによって人々を惑わし、また人々に獣の像を造るように命じ、その獣の像に息を吹き込み獣の像がものをいうことさえできるようにします)自らの像を造り、その像を拝まないものは皆殺しにし、それ以外の人にはその右手や額に刻印を押して、その刻印がなければ物を買うことも売ることもできないようにした。
その刻印とはその獣の名、あるいはその名の数字である。
賢い人は、その数字にどのような意味があるか考えて見るが良い。
数字は人間を指している。そして数字は666である」
です。
つまり666とは末法に出る獣(人の形をしているようですが)の名前であることが読み取れます。
獣は今でいうところのテレビなどの映像マスコミのようなものを使って情報操作やステマを行い、実態以上のカリスマ性を持ち小説1984年のようなディストピアの支配者になるようです(ただし、一般大衆の多くはそのように支配されていることに気が付いていないようですが)。
そして、人々には666の刻印が押される。これは今でいうチップのようなものでしょうか。
あるいは何か現在のバーコード決済や、コロナワクチンの証明書等も連想されます。
実際にバーコードの中には666の数字が隠されているという真偽不明の指摘もありますが。
つまり人々は刻印を押されることにより獣に管理されてしまうわけです。
また、この獣の正体に気が付きは反抗したものは、暗殺かどうかはその具体的な方法はわかりませんが殺されてしまうわけです。
この666に関する記述が現在に通じているように思えるのは、私だけでしょうか。
なお有名な映画オーメン(前兆)は666を題材にしていて、この獣をダミアンとして描いているということか思います。
因みに、このヨハネの黙示録はキリスト教の経典である(新約)聖書の中の一節であり、この黙示録の中にはこの666以外にも7つの封印、7つのラッパ、ハルマゲドン、キリストの再臨、等この手の話題に興味のない人でも耳にしたことがありそうなフレーズが多く入っており、以前より数多くの聖職者や研究科たちに注目されてきた非常に有名な予言と言えるものです。
黙示録におけるこの後の展開です。
皆様予想されるように、この後獣は天子様により退治されというか裁かれ(その過程で人々にも禊のような苦難が襲い、獣と同質化した数多くの人間も裁かれるようです)、残った人々のもとでキリストの再臨があり、地上の楽園、いわゆる神の1000年王国が始まる、ということです。
要するに、獣と獣に同質化した一旦堕落しきった人間や人間社会が裁かれ、その後残った高い精神性を持った人々により陰りのない新しい素晴らしい世の中がやってくる、という予言です。
以上の内容と展開を見てしまうと、666という数字は非常に気になってしまう、という方も中にはいらっしゃるかと思います。
それでは、大阪の666はどう見たら良いのでしょうか。
私達はこれをどう情報として生かしたら良いのでしょうか。
(注)
獣を必ずしも悪と見ない解釈もあるようです。
何故ならば、この獣が出現しないと神のキリストの再臨にたどり着かないからです。
したがって、獣を悪の役目をするために神から遣わされたナニモノか、と見ることも出来るということです。物事には常に表があれば裏があるということでしょうか。
続く