鈴木 優 土地親和論

鈴木優は、「土地親和論」を提唱し次世代における新しい社会創造のためには「地と人が一体であること」を実感することの大切さを説く。不動産鑑定士。不動産コンサルタント。

大阪 666(その4)

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昨日のブログの続きとして、次に大阪に関して考えて見たいと思います。

 

  •  大阪に関して

もちろん大阪自体の問題も出てきますが、その問題は日本全体、更には世界にも共通する問題でもあると示唆されるように思えます。

 

大阪は、コロナが発生する前までは中国や韓国などからの観光者が多くインバウンドの分野において日本の中で最も成功していた地域かと記憶しています。

コロナの出現が新時代の幕開けを告げたとも解釈できますので、大阪はいわば旧時代的な世界観における成功した象徴的な都市、つまり666的世界では大バビロンの象徴ということになるわけです。

ここで気を付けなければならないのは、大阪はあくまで象徴であって、大阪だけが固有の問題を抱えているということではなく、大阪の問題は日本や世界にも共通する問題であるということです。

いわば、大阪が日本全体や世界のひな型になっているという解釈です。

 

繰り返しますが、むしろ旧時代的世界観の中では、大阪は極めて優秀な優等生であったのです。

ですから旧時代を象徴する都市として選ばれた、ということかもしれません。

また、大阪は旧時代的な世界観の中では、テレビ局の報道や吉本等の芸人による庶民に対する情報発信や情報誘導が非常に上手く出来た都市でもありました。

このメディアを上手く利用する手腕は、黙示録的には竜による獣の像への崇拝誘導に当たるかと思えます。

上でも書きましたが、もちろんこれは大阪だけではなく日本の他地域においても多かれ少なかれ同じことがあり、また世界的にも行われてきた手法であります。

 

その代表選手として大阪が選ばれた、なぜなら大阪という都市から666的世界における大バビロンのイメージがすぐ頭に浮かぶからです。

 

そして社会的政治的経済的な混乱を伴いながら今後逆転現象のようなものが起こる、そんな近未来を大阪666は象徴的に伝えているように思えます。

恐らく、佐々木氏やLINE等の問題と同じように大阪の過去の行政関係者やその周りに連なる人々(政治家、経済界、テレビ局、芸人、広告代理店、人材派遣会社など)の隠されてきた問題点や情報誘導の実態、さらには登場人物の真の実力、姿等の露見というテーマを伴いながら。

更には、この大阪の問題を含め佐々木氏やLINE等これらすべてが同根の問題であり、情報の露見は日本の利権構造、利害構造、国際問題等に深刻な影響を与え、その転換の必要性を痛感させるような展開になっていくような気がしています。

なぜなら、666といういわば一旦の現在社会の死とその後の苦難の果ての再生を表すサインが出ているからです。

 

これまで書いてきましたが、666という数字は非常に重要な数字です。

従いまして、この数字が出てきたということは、大阪を一つの震源地として、上に書いたような情報の露見を伴いながら、結果としては日本の現状維持の体制を揺るがす展開となっていくということかもしれないということです。

ただし、既にお判りかもしれませんが666という数字の性格上、これまで隠された色々な情報が露になる中で、問題意識を持ち新しい社会を創らなければならないと考え感じる人間の割合は多くないかもしれません。

要するに、666の数字が出るということは、人々の立てわけも起こる、ということをも意味しているかもしれないということです。

言い方をかえれば、これからこの社会をどのように変えたらいいか、ということを真剣に考え感じることが出来るか否かについて一人一人問われる状況になる、ということかもしれません。

そしてこの時、多くの人は何も感じず、今まで通りの意識で生活を送っていくということになろうかと思います。

しかし、今後もし社会的変動が起きたとしたら、そのような人たちが今までと同じような感覚で乗り切ることは出来るのでしょうか。

ヨハネの黙示録では、多くの目覚めない人達が裁かれることになっていますが。

 

以上より結論として、私は今回の大阪666は一つの情報として今後大いに注視していく必要があると考えています。

とりあえずは、大阪のコロナ感染者の行方とそれへの対応の中における行政他関係者の再評価、といったところからドラマが始まりそうにも思えますが、どうなるでしょうか。

 

兎にも角にも、念のため心のシートベルトは点検しておいた方がよさそうです。

 

(注)

このブログで扱った問題は共時性に関連する問題です。

ですから、AならばB、というような因果論は当てはまらないということは押さえておく必要があります。

したがって、あくまで念のため注視するという表現を使ったということです。