土地親和論‐プロローグ
2018年12月、年の暮れも押し迫ったころ常々一度は訪れてみたいと思っていた千葉県にあるとある神社に行く機会に恵まれました。
その神社は(神社にご迷惑が掛かるといけませんのであえて名前は伏せますが)今日本の中でひそかに読まれている本に非常にゆかりのある場所でして、(このような言い方は個人的には好きではないのですが)パワースポットでもあると言われております。
私はパワースポットだからという理由ではなく(くどいようですがそもそもパワースポットなるものに興味はありません)、秘かに読まれている本(すみません、もったいぶるわけではないのですが神社の場所が特定されてしまいますので、この本については一部で非常に注目されている書とだけ言って名前は伏せさせていただきます)を私も長く愛読しておりましたのでその神社を訪れることにいたしました。
その神社は深い森に囲まれまたその境内の中には見事な杉の大木があります。
私はご参拝をしつつこれまた立派な木々に囲まれたその大杉の周りをぐるりと一周することにしました(大杉の周りは一周できるように尾瀬にあるような簡易な通路が設けられています)。
そしてその通路を辿って大杉の周りを回り始めた時、私は何か視線を感じたのです、上の方からくる視線を。
人の気配はありません。
因みに私は人に見えないものが見えるようないわゆる霊能者ではありません(私は元来怖がりですので、霊能者でないことに心の底から感謝しているぐらいです)。
そんな私が人の気配がないのに視線を感じるのは初めてでした。
私は視線の先、つまり上を見ました。
大杉を囲む立派な木々を見ました。
そしてわかったのです、視線の元を。
私の感じた視線はその木々から発せられたものでした。
木々の視線はとても温かいと同時に少し悲しげなものでもありました。
そしてそれと同時に感じたのです。
木々が私に伝えたいことを。
木々が私に伝えてきたこと、それはパッとした映像イメージも伴った以下のことでした。
「木々も人(私のこと)も木々の根が生えている地もすべて一つのものである」と。
また同時に、今そのことを人は忘れてしまい己が利益や思惑を優先させ土地の開発や汚染・浸食に明け暮れ、木々も地も(そして人も)危機的状態に陥りつつあるとも訴えかけてきました。
地や木々の危機は人の危機でもあるにもかかわらず、人は害になる活動を今のところ止める気配はありません。
しかし木々が私に伝えてきたことは、本来ならば地も木々も人も一体(一つのもの)であり、お互い助け合い癒しあいながら生きていくものということでした。
もし人がそのことを思い出しそれに沿った活動を行うならば、反対に地や木々も人に今よりはるかに多くの恵みを返してくれるということです。
そしてそのことを木々から伝えられた私は、そのことを他の人にも伝えなければならないということも感じました。
もちろんそのような社会を創っていくことにも微力ながら尽力しなければならないことも。
上に書いたことは、世間常識では私の単なる錯覚ということになるでしょう。
しかし、私の心の中ではこのことはリアルな現実であったことも確かです。
この日以来私の不動産というものに対する理解を根本から練り直す長い航海がはじまりました。
そしてその航海はまだまだ最終目的地を探して続いているところですが、皆様にもその航海の中間の成果や航海の中での経験等を少しはお伝えできるようになってきたのではないかという程度には進んできたかなと思っているところです。
そのようなことを背景として、これから私の航海の経験や成果を「土地親和論」としてまとめこのブログでも逐次お伝えしていくことにいたしました。
本日は土地親和論のスタートにあたってのプロローグとしてまとめさせていただきました。