鈴木 優 新人類世紀

新しい社会のあり姿について、不動産の話も交え、考え提案していきたいと思います。平日毎日投稿し、ときどき拡大版を投稿します。

風の時代は新人類の時代(その1)

このブログの題名は新人類世紀です。

 

この題名の内、新人類というフレーズはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、かつてその当時の若者が新人類と名付けられたことがあるのですが、そこからとってきています。

 

ウィキペディアによればこの新人類という言葉は現在では一般的には死語の扱いとなっていますが、1980年代に「従来とは異なった感性や価値観、行動規範を持っている」若者を指す言葉として用いられたということで、現在でもマーケティングにおける世代区分で使用されることがあるようです。

因みに、不肖この私も新人類の世代に当たりますが。

 

だから私はこのブログで新人類の言葉を使用した、ということではありません。

 

私がこの言葉に注目したのは、上に書いた新人類の定義が今後の変わっていくべき人々の姿を表現する上において適当だと考えた、ということが一つの理由です。

 

そしてもう一つの理由は、この言葉が主に1980年代に生きた言葉として使用された、ということです。

 

では、この1980年代とはいかなる時代なのでしょうか。

 

前半はイランにおけるホメイニ革命に端を発した石油ショック後のもはや戦後の高度成長期は終わったと言われた不景気の時代、後半はプラザ合意後の大規模な金融緩和を背景としたバブルの時代、ジャパンアズナンバーワンと謳われた時代、そして昭和~平成に移り変わる時代であり、その後1990年代はバブルがはじけていくことになります。

しかし、私が注目したのはここではありません。

 

実は占星術では、1981年から2000年にかけては「風の時代」だったのです。

 

少し混乱するかもしれませんので、以前のブログでも書きましたことを簡単に繰り返してみます。

ザクッと言いますと、占星術では星は風、火、水、地のエレメントに大別されますが、約20年ごとにそのどれかのエレメントに属する期間になる(この辺りの詳細は以前のブログを見ていただくか、またはネットでも容易に調べることが可能です)、ということになっています。

そして、この20年ごとに変わるエレメントの期間が連続して10回程度主に同じものになるという現象が起きます。

例えば、2020年の暮れまでは200年くらい地のエレメントの期間に主に連続してなっており、また今後200年くらいは風のエレメントの期間に主に連続してなる、ということです。

したがって、「今や風の時代になった」ということになるわけです。

 

しかし、20年ごとのエレメントを個別にあたっていくと、中に例外のエレメントが混じっていることがわかります。

大体10回前後連続するエレメントの中に2回くらい(つまり20年×2回で合計40年間ぐらい)別のエレメントが混じります。

 

そして1981年~2000年は、それまで地のエレメントの期間は続いていた中で突然変異のごとく別のエレメント、すなわち風のエレメントの期間となっていたのです。

あたかも、2020年暮れから始まる本格的な風のエレメントの期間の予行演習をするがごとく。

 

続く

風の時代という言葉について私が思うこと(その5)

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今や「風の時代」という「時」が到来したので物事の流れが変わり、人生における価値観といったものは内面重視になり、従来の外面重視の価値観といった志向は逆転していくでしょう。

この流れの中で、従来の価値観にどっぷりつかっていた人たちは、やがて従来のようには物事が運ばなくなっていることに気がつくでしょう。

そして、これまで何かと感じすぎ考えすぎと言われていた心優しいが不器用な人たちは、勇気を奮って自らの心の羅針盤に正直についていったとすれば、いわゆる神の追い風のようなものを感じながら、心が充実する成果を得ることが出来やすくなるでしょう。

 

時代が変わったということは、こういうことなのです。

運の現れ方や向く方向がこれまでとは変わるとでも言いましょうか。

いや、より踏み込んで言えば、もともとはそうであったものが、これまでは人々の価値がまるで外側の財産や地位などの見えるモノのみにあるかのような幻想を擦りこまれてきた(そういった流れの時代であった)ので見えていなかった、が、霧が風で吹き消されるがごとく今や再び真実の姿が見えるようになってきた、というべきかもしれません。

 

当然以前のブログでも書いたように社会も個人も混乱します、なぜならば世の流れが変わるのですから。

しかし、その中で新しい時代の流れを感じようとしながら自らの本当の心を訪ねその羅針盤を頼りにするならば、その中で新しい時代の中で感じやすくなるシンクロニシティの助けもあり、(傍目から見ると大したことでなくとも)自らの心を満たしてくれるものを得ることが出来るでしょう。

これこそが、人生なのです。

 

ですから、もしこのブログを多少でも関心持って読んでいらっしゃる方は、まずは外面的な執着、こだわりといったものを取り外し、自らの心を訪ねるチャレンジをしてみてはいかがでしょうか。

実際やってみると雑念が入り結構難しいと思われるはずですが、やりがいのあるチャレンジであるとも思いますが(因みに私もまだまだ難しくて、大変な思いをしながらチャレンジを続けています)。

 

追伸

 

最後に大切なことをもう一つ。

それは、上で言ったような内面を見つめる価値観で人々が生きていくには、皆が協力する必要があるということです。

皆がバラバラでは、これまでのような弱肉強食の社会を続けざる負えなくなります。

したがって、今後新しい社会システム像といったものの提示も併せて必要になろうかと思います。

これにつきましては、私も私なりに考えてみて、またこのブログなどに投稿させていただこうかなと思っております。

 

風の時代という言葉について私が思うこと(その4)

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昨日も書きましたが、これから社会に混乱期が訪れると見ています。

それと同時に、まず一部の人々の考え方や価値観に変化(既に変化している人たちが出ていますが)が起こっていくと考えています。

 

そしてこの変化は、社会が混乱したから起こったというよりは、社会の変化と時を同じくしてパラレルに(シンクロニシティして)起こる変化でありましょう。

 

そしてこの一部の人たちの変化は風の時代という文脈を加味して考えると、幸福の基準をお金や財産、社会的地位などの外面的なものを対象とした価値観ではなく(生活がありますので全面的にこの価値観が無くなるとは思えませんが)、自らの心の深層にある自らのやりたいことや使命と思えることを行い、そこで(仮にそれが従来の価値観からするととるに足らないことだとしても)何らかの成果を上げることに従来以上の喜びや達成感、価値観を感じる、ということになろうかと思います。

つまり、これまでの外面の価値観と内面の価値観のつり合いが取れてくる、といったような感じかと思います。

 

この内面の達成感は、外面から判断した達成感ではなく、本来備わっている自らの心を満たすものでありますので、当然その満足度は高いでしょう。

また自らの奥底の心は昔から「神」という表現で呼ばれるモノでもあり、物事を達成していく過程においてシンクロニシティにより神の追い風のようなものを感じる場合もあるかと思いますので、恐らく人間として何か従来より段階が上がったような感覚になるかもしれません。

ひょっとしたら、現在と比較して人生の充実度は非常に高いものになるかもしれません。。

 

これまでは、外面的な価値観の達成を迷いなく追及できる人間にとって、生きやすい社会でした(実際は、そういう人間が何らかの実績を達成しても、心が満たされず飢餓感に苛まれることも多々あったかに思えますが)。

そして、外面的な価値観以外に何かあるのではないかともがいていた人たちは考えすぎて生き辛く、その結果人間としてその能力を十分発揮できずにいた人も多々いたかと思います。

 

しかし、今や「風の時代」という「時」が到来し、物事の流れが変わり、この立場は逆転しました。

 

続く

風の時代という言葉について私が思うこと(その3)

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昨日に続きです。

 

昨日、これから社会的(経済的)な混乱が近い将来訪れることは覚悟している必要があろう、と書きました。

 

この社会的(経済的)に混乱するということは、人が現在の価値観を乗り越えてどう生きていくか、どう考え選択していくか、という時代に差し掛かったということを意味し、これこそが「風の時代」に入ったということの現実の姿であろうかと思います。

このことは、当然個人個人に関しては今まで通り変わらないという選択肢もありますが、時代はその選択を許さない、ならば変わるという選択を行わざる負えない、であればむしろ自らが主体的に自分流で変わっていこうではないか、どうやって、自らの奥底の心を訪ねて(そうすれば第6感も味方してくれる)、という流れで進んでいくことを求められる、そういう各人ある種腹を括る局面が来つつあるということを意味するものと言えます。

 

ですから、日常軽いタッチで、「風の時代」であなたも変われる、だから何々先生のセミナーに行こう、等という誘い文句は、よくよく確かめて乗るか乗らないかお決めになられた方がよろしいかと思います。

 

ところで、それでは「風の時代」は人々にとって生きやすい時代なのでしょうか、そうではないのでしょうか。

上で書きましたように黎明期は社会的にも個人的にも軌道修正を伴う混乱が生じることが予測されますので一見大変そうに見えますが、私はそうではないと思っています(もちろん大変な人はいると思いますが)、特に今まで生きづらかった人にとっては。

 

続く

風の時代という言葉について私が思うこと(その2)

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昨今「風の時代」に変わったというフレーズをよく聞きます。

そして「風の時代」というフレーズを使うことに関して賛否両論あること、また私は「風の時代」というフレーズを使っても一向に問題ないと考えている、というようなことを昨日のブログで書きました。

 

それではこの「風の時代」というフレーズを使うことに関して、何か注意することはあるのでしょうか。

 

私は昨今ネット等での「風の時代」の使われ方を見ていると、問題はあると思っています。

 

その理由は、一部の人の中では、「風の時代」の到来により人間の全部あるいは一部は進化した。

また、世の中そのものも「風の時代」の到来により進化し変わった。

だから、これからは何々しましょう、的な論調を良く読み、また良く読みます。

 

これはちょっと違うのではないでしょうか。

 

そもそも占星術的に言っても風の要素の強い期間は200年なり更に2000年単位のみずがめ座の期間なりの話しであり、いわば歴史の教科書に長々のるようスパンの話であります。

当然、目が覚めたら世の中急に変わりました、等ということはないでしょう。

また、人間に関しても、仮に風の要素の影響で自らの生き方なり何なりかを悟ったあるいは閃いたとしても(これは星の巡りの中で各人の心の中を中心に実際にかなり起こることだと思いますが)、やはりそこは生身の人間、その後これまでの垢を落とす禊をするかの如く、混乱と葛藤とその後の修業の日々が続き、一歩一歩前進して行くことになるわけです。

 

しかも、これまでの価値観の中でドップリつかってきたわけでありますから、最初は恐らく直観に優れた人やいわゆるご縁のある人等極々少数の人から心の修業の日々が始まり、それがやがて次の人に伝搬していいき、やがて世の中の主流になるといったような広がり方をすると考えられるわけです。

 

したがって社会的システムもドラスティックに一夜にして変わるわけではなく、まずは恐らく現在のグローバル化社会の中で地球規模に広がる旧システムを大きく揺さぶる混乱(もうしばらくして起こるであろうバブルの崩壊によって口火が切られるような気がしています)が生じ、その後の復興の過程において新旧勢力のせめぎ合いを経ながら、社会が数十年あるいは100年単位の中で新しい形に変化していく、と考えるのが過去の歴史から見ても自然の流れであろうかと思います。

そう、まずは社会的(経済的)な混乱が近い将来訪れることは覚悟している必要があるということです。

ちょっと嫌な予測ですが。

 

反面その後の復興と新しい社会の勃興という側面から見れば、新たな輝きを見せ始めるという時代と言えるかもしれませんが。

 

続く

風の時代という言葉について私が思うこと(その1)

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これまで私はブログの中で「風の時代」というフレーズを何回も出してきました。

この「風の時代」というフレーズは、現在占星術の中で風の要素が強い時代に入った(すみません専門的な意味で用語の使い方が正しいかわかりませんが、要はこういう意味です。この内容につきましては以前のブログでも触れておりますので、ご興味のある方はご参照ください)ということを背景として言われている言葉です。

 

ですが、この風の時代というフレーズを使うことに非常に批判的な人もいます。

 

恐らくその理由は(批判的な発言をする人の一部の方の話しの内容から)、占星術的にいわゆる風の要素が強い期間というのは、各自自由で捉われがなく平等であるといった傾向が人々の心や世の中の風潮に色濃く出る期間である、従ってこの期間をある言葉を使って固定的断定的に定義するのは、そもそもこの期間の特徴に合わない、とか、そもそも辞書的な意味で時代などという言葉を使うのはおかしい、とかといったところであろうかと思われます(私の説明は言葉足らずだと思いますが、この説明で当たらずも遠からずといったところかと思います)。

 

私は上の理由の内、これからの風の要素の強い期間についての世の中や人々の在り方についての説明は、その通りだと思っています。

 

であるがゆえに、私は言葉の定義をしてはならないというようなことにこだわることなく、今の期間をカジュアルにとりあえず風の時代と呼んで一向にかまわないと考えています。

また、辞書的な意味での言葉の定義などというのは、そもそもこのような話題においては大した問題ではないと考えています。

 

それでは何故「風の時代」という言い方が広く使われ始めているかというと、この「風の言葉」という響きが時代の雰囲気(エートスという言い方があるようです)にあっているからではないかと感じています。

まさに風のエレメントそのものではないでしょうか。

 

そんなことで、今後も便宜的に「風の時代」というフレーズは使用していこうかと思っています。

 

ではこの「風の時代」なる言葉を使うに際して、何か注意することはあるのでしょうか。

 

続く

大阪 666(その4)

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昨日のブログの続きとして、次に大阪に関して考えて見たいと思います。

 

  •  大阪に関して

もちろん大阪自体の問題も出てきますが、その問題は日本全体、更には世界にも共通する問題でもあると示唆されるように思えます。

 

大阪は、コロナが発生する前までは中国や韓国などからの観光者が多くインバウンドの分野において日本の中で最も成功していた地域かと記憶しています。

コロナの出現が新時代の幕開けを告げたとも解釈できますので、大阪はいわば旧時代的な世界観における成功した象徴的な都市、つまり666的世界では大バビロンの象徴ということになるわけです。

ここで気を付けなければならないのは、大阪はあくまで象徴であって、大阪だけが固有の問題を抱えているということではなく、大阪の問題は日本や世界にも共通する問題であるということです。

いわば、大阪が日本全体や世界のひな型になっているという解釈です。

 

繰り返しますが、むしろ旧時代的世界観の中では、大阪は極めて優秀な優等生であったのです。

ですから旧時代を象徴する都市として選ばれた、ということかもしれません。

また、大阪は旧時代的な世界観の中では、テレビ局の報道や吉本等の芸人による庶民に対する情報発信や情報誘導が非常に上手く出来た都市でもありました。

このメディアを上手く利用する手腕は、黙示録的には竜による獣の像への崇拝誘導に当たるかと思えます。

上でも書きましたが、もちろんこれは大阪だけではなく日本の他地域においても多かれ少なかれ同じことがあり、また世界的にも行われてきた手法であります。

 

その代表選手として大阪が選ばれた、なぜなら大阪という都市から666的世界における大バビロンのイメージがすぐ頭に浮かぶからです。

 

そして社会的政治的経済的な混乱を伴いながら今後逆転現象のようなものが起こる、そんな近未来を大阪666は象徴的に伝えているように思えます。

恐らく、佐々木氏やLINE等の問題と同じように大阪の過去の行政関係者やその周りに連なる人々(政治家、経済界、テレビ局、芸人、広告代理店、人材派遣会社など)の隠されてきた問題点や情報誘導の実態、さらには登場人物の真の実力、姿等の露見というテーマを伴いながら。

更には、この大阪の問題を含め佐々木氏やLINE等これらすべてが同根の問題であり、情報の露見は日本の利権構造、利害構造、国際問題等に深刻な影響を与え、その転換の必要性を痛感させるような展開になっていくような気がしています。

なぜなら、666といういわば一旦の現在社会の死とその後の苦難の果ての再生を表すサインが出ているからです。

 

これまで書いてきましたが、666という数字は非常に重要な数字です。

従いまして、この数字が出てきたということは、大阪を一つの震源地として、上に書いたような情報の露見を伴いながら、結果としては日本の現状維持の体制を揺るがす展開となっていくということかもしれないということです。

ただし、既にお判りかもしれませんが666という数字の性格上、これまで隠された色々な情報が露になる中で、問題意識を持ち新しい社会を創らなければならないと考え感じる人間の割合は多くないかもしれません。

要するに、666の数字が出るということは、人々の立てわけも起こる、ということをも意味しているかもしれないということです。

言い方をかえれば、これからこの社会をどのように変えたらいいか、ということを真剣に考え感じることが出来るか否かについて一人一人問われる状況になる、ということかもしれません。

そしてこの時、多くの人は何も感じず、今まで通りの意識で生活を送っていくということになろうかと思います。

しかし、今後もし社会的変動が起きたとしたら、そのような人たちが今までと同じような感覚で乗り切ることは出来るのでしょうか。

ヨハネの黙示録では、多くの目覚めない人達が裁かれることになっていますが。

 

以上より結論として、私は今回の大阪666は一つの情報として今後大いに注視していく必要があると考えています。

とりあえずは、大阪のコロナ感染者の行方とそれへの対応の中における行政他関係者の再評価、といったところからドラマが始まりそうにも思えますが、どうなるでしょうか。

 

兎にも角にも、念のため心のシートベルトは点検しておいた方がよさそうです。

 

(注)

このブログで扱った問題は共時性に関連する問題です。

ですから、AならばB、というような因果論は当てはまらないということは押さえておく必要があります。

したがって、あくまで念のため注視するという表現を使ったということです。