鈴木 優 土地親和論

鈴木優は、「土地親和論」を提唱し次世代における新しい社会創造のためには「地と人が一体であること」を実感することの大切さを説く。不動産鑑定士。不動産コンサルタント。

情報取集は二刀流のすすめ(後編)

前回のブログでは、今のような激動期では目に見える物質的な情報だけでは対処できないということを書きました。

 

今回はその続きになります。

 

現在のような大転換期においては、受験においてその能力判定の基礎となる物質的な視点における考察能力だけでなく、いわゆる目に見えない世界の情報である直感を引き出しそしてその直感や天や運命に自らをゆだねたり通じていくという能力が必要になるのです。

いや、より正確に言うとこの二つの能力が人にとってそもそも揃って必要である、この二つの能力を足したものが人の本当のいわゆる「頭が良い能力」という指標であるのだということが今わかって来たということなのです。

 

東大出身を売りにしているコメンテーターには大変申し訳ないが、彼らは過大評価されてきたということです。

同様のことが同じく高学歴者の巣窟であろう、高級官僚にも、医者にも、専門的な学者先生にも、マスコミの面々にも大企業の経営者や従業員にも言えるということもお判りになろうかと思います。

 

ですから、以前から私はこのブログで「今権威が失墜する時代に入ってきた」と言っているわけです。

これが「情報開示」「信じるから知る時代へ」の意味です。

 

この意味は、すなわち日本が明治以来の富国、経済発展、西洋近代化、の時代が終わり、新たな下剋上の時代を迎えつつあるということも意味しようかと思います。

 

これは既に高学歴の人間が嬉々として2回治験段階のワクチンを接種して今3回目4回目を前にして、海外から入ってくる情報に接してようやく「待てよ」という状況に陥っている一方、学校の勉強がそれほど得意でなく英語も読めないが今回のワクチンは「何か匂う」として未接種に踏みとどまり、結果2年以上何事もなく過ごしてきて今改めて「未接種で良かった」と半ば確信している人たちも散見されるという理由にもなろうかと思います。

 

もちろんワクチン接種については個人差がありますので、接種、未接種、どちらが良いとは言えませんが、少なくとも周りに流されるまま世間体や常識人という本来健康とは全く関係にない判断基準からあまり深く考えずに治験段階のワクチンを2回接種して、今改めて海外から頻々として入ってくる情報に接して今後自らの身体に影響してくるかもしれない薬害に対する漠然とした不安を抱えているであろう少なからない人達に対して、未接種で自らの持って生まれた自然の免疫が健在な状態のもとで今ぴんぴんしている人たちの方が結果論としては良いという判断が全くあり得ないとは言えません(そして、ワクチン接種本格化以降のコロナを起因とした統計上出ている死亡率や重症化率からみて、少なくとも60代前半より若い未接種者が100%に近しい高確率で、仮に過去にコロナに感染したとしても無症状か普通の風邪に毛の生えたような症状で乗り切り、今だぴんぴんしているというのは容易に推察されるのです)。

 

そしてこの結果論の違いはどこから生じたかというと、「何か匂う」という目に見えない世界からの情報なのです。

 

ですから世間一般では高学歴で「頭が良い」と判断される人よりそれほど勉強が得意でない人が、結果として目に見えない世界からの情報量で前者を逆転して、トータルの情報量として後者の方が結果「良い」つまり結果「頭が良い」と認定されるということも出てくる可能性があるわけです。

 

繰り返しになりますが、天下泰平では見えないことが、世の中が動くと見えてくるのです。

それは、人には情報収集や物事の判断において、二刀流になることが必要であるということ。

裏を返せば、そもそも人間はこの側面において二刀流の生物なのだと。

 

でありますので、これまでの一刀に偏った人間を過大に重用して来たやり方では、世の中上手くいかないのは当然なのです。

 

しかも、一刀に偏った人間はそもそも物質的価値観に偏重している人間ですので人として執着心が強く度量が小さいことが容易に予想されますから、そうした人間に権限がわたると本来重用されるべき二刀流の人間が社会の中枢から遠ざけられ、一刀に偏った物欲の旺盛な近視眼の人たちが跳梁跋扈し社会が腐敗して衰退していくという、お隣中国の歴史で繰り返された絵にかいたような王朝終焉の展開が今ここ日本で、いや西洋近代諸国全体でクライマックスを迎えている可能性があるということが言えましょう。

 

やはり、どう考えても時代が激動することは避けられないようです。

皆様方一人一人も前例のない展開の中で、情報の収集がますます重要になることでしょう。

 

では、どのようにして見えない世界の情報をキャッチできるようにするか?

 

これについては色々な方法があるようですが、無責任なようですが私は人様に教えられるほど精通していません。

 

ただ、一つだけお伝え出来ることがあります。

 

私が提唱している土地親和論、これは見えない世界に接近していく一つの入口であることは間違いありません。

 

「地」はあの世とこの世の境目にあります。

「地」に皆様の心を寄せることは、決して無駄なことではないと思います。

 

 

(参考)

 

「土地親和論」を以下のように提示します。

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」

 

情報取集は二刀流のすすめ(前編)

最近英語に凝っています。

 

と言ってもの、流ちょうに話すことが出来るようになるとか、TOEICで高得点を取れるようになる、とか海外で暮らしたい、とかという高尚な目的ではなく、寄る年波に勝てず最近物忘れが酷くなってきた脳の老化対策が目的です。

 

脳の老化を日々実感する中にあって何か脳に刺激を与えることをやってみようかと思い立ち、数独とか囲碁とかも候補に挙がったのですが、若いころ受験で親しんだ英語を今度は趣味的に始めてみようかという思いに至ったという次第であります。

 

では具体的に何から始めようかということで、ネットで調べたりアマゾンの書評を読んだり、YouTubeを見てみたりということが始まりました。

 

で、前置きが長くなりましたが、今日の本題はここからです。

しかも英語が全然関係ない話で!

 

英語学習のYouTubeを漁っていますと、そのユーチューバーが予備校の講師であったりすることにしばしば遭遇します。

そんなこともあり、年甲斐もなく懐かしさもあり、大学受験に関するYouTubeも楽しく拝見させていただくようになりました。

 

特に東大等の超難関大学に合格したYouTubeの数学の番組などは、個人的にお気に入りです。

 

いやそれにしても、東大などに合格した人たちはやはり良く勉強していたようです(当たり前ですが)。

そして当然ですが、そういう大学受験で凄い人たちは、いわゆる地頭が良いということも手に取るように伝わってきます。

長時間の勉強が出来なかった(サボっていた?)若かりし頃の私に爪の垢でも飲ませたいところです。

 

ですが、すみません、私ひねくれ者でして、そんな世に言う天才や秀才の素晴らしい姿を見て、ふと思ってしまったことがあったのです。

いや、正確に言うと、思い当ってしまったというべきでしょうか。

 

それは。

 

確かに天下泰平であれば、彼らの緻密で正確無比な頭脳は社会に出ても大いに役立つでしょう。

しかし、私が常々このブログでも書いてきたように、現在が私の持論通りの歴史的大転換期の荒波の中に入っているとしたら、彼らは果たして世の中の異様な展開の中で今まで通りに自らの能力を大いに発揮することができるだろうか、ということです。

 

世の中が激動するということは、前例がない状況の中である種確信のない(正確に言えば、現状の高度の分析に加え、過去の歴史や宗教、あるいは心理学、更にはいわゆる隠された知恵などの考察や知識を動員すれば、おぼろげな羅針盤がほのかに浮かび上がるかもしれませんが)が自分を含めた周囲に影響が大である重大な決断をしなければならないという、非常に大きな精神的プレッシャーがかかる状況の中で、果たして彼らが正常に振る舞うことが出来るだろうかという深い疑念が出てくるのです。

 

しかも、前例踏襲がかなわない中で行われる彼らの決断の内容が、果たして正しい方向のモノであるだろうかという問題も出てきます。

 

そしてその答えは、直近のワクチンやウクライナの問題の中で既に浮き彫りになってきていると、私は感じています。

 

昨今は、東大や京大などのいわゆる超難関大学出身ということを売りにしたコメンテーターやユーチューバーに良く出てきています。

この人たちのコメントを聞いているとよくわかります。

彼らのコメントはどれも似通っているのです。

世の中の一般的な常識に沿った良い子のコメントなのです。

 

このような状況を見て、私は(もちろんすべての人とは言いませんが)大方の人はコメントをいわゆる置きにいっているように強く感じています。

周りを見ながら、その中の絶秒なバランスの場所に(そこは勉強が出来ますから、このようなことは長けているのです)、コメントを置きに行っているのです。

 

彼らも勉強が出来て巧妙ですから一見自信をもって持論を述べているように振る舞ってはいますが、そこで出てくる大方の持論がステレオタイプなものでかつ綺麗ごとで脚色されているものですので、置きに行っているのが手に取るように伝わってくるというわけです。

 

更に、そうは言っても世間常識に沿ったある方向性の意見を置きに行っているわけですので(ワクチンで言えば接種促進、ウクライナで言えばウクライナ万歳ロシア悪いの一貫した勧善懲悪姿勢)、もし今後これらの方向性を裏返す情報が出てきた時には(歴史を見れば、こうなることは別に稀なことではないようですが)、これらのコメンテーターやユーチューバーが実は無能な節穴であったということが露見してしまうリスクがあることにも気が付いていないようなのです。

いや正確に言えば、今後仮に上で書いたような状況になったとしても、頭の悪い一般視聴者はその時にはそんなことはすっかり忘れていると高を括っているのかもしれませんが。

 

いやいや敏感な視聴者は忘れませんよ。

今や情報化社会でかつ時代も変わりつつあるのですから、これまでのようにはいきません!

(私の狭い経験の上で見たところ、例えば東大出身で鋭い独自の頭で考えた分析や意見を述べているのは藤原直哉氏くらいでしょうか)。

 

本題に戻ります。

上で書いたように自らの身を落としかねないコメントを、そのリスクに気がつかずあるいはそのリスクを過小評価して悠然と置きに行っているということは、要は自分の意見に確信がなくかつ将来自らが置かれるかもしれない状況について想像力もなく、現状を無難に乗り切ることに汲汲としているということを示しているとも見えなくはありません。

 

その理由は、前例がない事象の中ではこれまでの経験則が役に立たないからでしょう。

つまり受験勉強の延長線上の、目に目える物質的な世界からの情報だけでは、前が見えないということなのです。

 

それに対して、上で書いた藤原氏はご自身でも再三再四言われていますが、目に見えない世界に関する知恵や情報を大切にし、またその分野に対する見識や経験も非常に深いものがあります。

そうなるといわゆる頭脳明晰な見識とも相まって、鬼に金棒です。

現在のような大転換期でも前の見通しが効いて、傾聴に値するはっきりした自分の意見や分析を述べることが出来るというわけです。

 

これが、私が考える現在の学問や学歴社会の限界ということになります。

 

続く

今日は春分の日、2022年もいよいよ春ということで、近所の桜も色づき始めました

本日は3月21日で、春分の日です。

 

私の近所には綺麗な桜並木があるのですが、昨日たまたまそこを通りかかったところ、桜の木がほのかなピンク色に色づいていました。

 

立ち止まって枝を見ると、桜の花のつぼみが開きかかっていました。

桜の見ごろももう直ぐのようです。

 

ところでこの春分の日は、西洋占星術では一年の始まりに見立てる向きもあるそうです。

ということは、2022年がこれから本番ということになります。

 

少し前のこのブログで、旧暦から見て節分の2月3日が2022年の本格始動と書いたかと思います。

 

ということは、この春分の日をもって洋の東西で2022年の幕開けそろい踏みというわけです。

 

ところで占星術上の2022年のテーマを色々調べてみると、私がこのブログで以前から書いている通り、「情報公開」が出てくるようです。

 

またその情報の公開され方が、「草の根」レベルでジワット広まるという形態を取るようですから、当然情報のキャッチ能力を巡って「2極化」が起こるわけです。

 

この文脈で言えば、この2022年はこれまで隠されていた情報が漏れ伝わる(私の実感ではもう既に十二分に漏れ伝わっているように感じますが)ことにより、既存の価値観念に疑問が生じる、または崩れる、ということに繋がるということになろうかと思います。

 

その結果、一部の情報完治能力の高い人々(このような人々は「目覚めた人々」と呼ばれることもあるようです)から、その人たちの心に芽生えた新しい価値観や新しい社会像を背景としたさまざまな活動や試みが本格的に始まることになります。

 

そして私が上のような見通しを、占星術の解釈という今までは「非科学的」で「信じるに当たらない」情報という地位に甘んじていたをツールを敢えてこのブログで引用して書いているということも、「情報公開」という流れの中でこれまでの常識が覆る、あるいは今まで隠されていた情報が白日の下にさらされるという文脈に沿ったものであるということを、敏感な方々にはご理解いただけるのではないかと思います。

 

兎にも角にも、いよいよこれから本当の意味での「情報公開元年」の2022年が始まります。

 

上でも書きましたが、情報公開の流れの中でこれまでの価値観念や歴史の真実などが次々とネット等の新しい情報ツールや敏感な人々の素朴な直感や違和感を通して玉石混じりながら世間の空間ににじみ出てくることになるでしょう。

そしてその情報を「その真偽や意味を考慮すべき」情報として、とりあえず見つめてみることが出来るかが、今後の人々の2極化の嵐の中で各自がどのような方向に進んでいくことが出来るかということに、大きく関わってくるということになります。

 

当然出てくる情報によっては自分にとって不都合なものもあるでしょう。

しかしだからと言ってその情報に目を瞑っても、世の中はそのような人たちは取り残して非情に進んでいくだけです。

むしろその場合「雨降って地固まる」くらいの度量が必要になります。

これは大変な苦痛を伴う作業ですが、この作業こそが現在の私達に課せられた新たなミッションということになるでしょう。

ですが、見方を変えれば私達は新しい社会を創造しているフロンティアになるという、これ以上ない「ワクワクする」ミッションにあずかることが出来るともいえるのです。

 

少なくとも私はそのように捉えています。

 

そして、このミッションを果たしていくためには、「豊かさ」とは何かをもう一度考え直し、

また人と周囲の環境つまり「地」や「自然」「地球」「万類」といったものとの関係を、もう一度捉え直していくことが必要不可欠と考えています。

 

ですから、私はこれからもまだまだ「土地親和論」を探求し提唱していくということになるのです。

 

(備考)

土地親和論とは

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」

ウクライナ戦争と日本の横しか見ない人達

ロシアがウクライナに攻め込んで1週間以上たちました。

 

ここ日本の世間では、ロシア非難、プーチン批判の空気、意見で満ち溢れています。

そしてウクライナの大統領ゼレンスキーはヒーロー扱いです。

 

私はここで、いやロシアは本当は何何で、ウクライナはこれまでこれこれで、今の報道は事実を伝えていない、従ってプーチンにも一理がある、などという議論を長々するつもりはありません。

 

まあ、確かに今の報道が信頼に足るものであるかは疑わしいですが。

例えば、

・ 今のウクライナ国内で少数派であるユダヤ系の人(もちろんユダヤ系が良くないという意味ではありませんので、その点誤解無きよう)やアメリカとの2重国籍の人間で中枢を固めたウクライナ政府が今まで本当にウクライナの民のための政府であったのか

・ ウクライナの正規軍とウクライナの中でブイブイと幅を利かせている外人部隊(少数派であるユダヤ系で固めているゼレンスキーを始めとする今のウクライナ政府とは表裏一体の関係であるそうですが)とは本当に蜜月で共に戦っているのか

・ ゼレンスキーのウクライナ政府(ゼレンスキーのパトロンウクライナの人ではなくイスラエル人と言われている)と外人部隊(中にはアルカーイダやISISの残党も入り込んでいるという話もあります)はウクライナの民の命は二の次で、ウクライナの一般人を生身の人間の盾として利用しているということはないか

・ むしろお互い歴史的にも現実的にも近しい親戚関係にあるロシア人によるロシア軍の方が、ウクライナの一般人の犠牲を極力少なくするために今までは(これからは判りませんが)進軍を慎重に進めているのではないか

・ だからロシア軍がウクライナの勇敢な市民の草の根的な抵抗に大苦戦しているという今の報道は信頼できないのではないか

等今の報道が怪しい理由を挙げればきりがありませんが。

 

ですが、今私がウクライナ戦争に対する日本人の反応を見ていて一番気になるのは、上に挙げたような日本の報道機関の信頼性ではないのです(いや、当然日本のテレビや新聞が信頼性に欠けるのは大問題ですが、このことはワクチン報道等でとうの昔にわかっていることですので)。

 

むしろ私が気になったのは、日本人の反応です。

上に書きましたように、このウクライナ戦争は今のウクライナ政府の中枢の構成者にも、また当然攻め込んだ恐ろしい野望に燃えるプーチン率いるロシアにも、お互い問題のある出来事です。

そんな中で可哀そうなのはウクライナの民(とロシアの一般の人々)というわけですが。

 

ところが日本人の一般の人たちの言動を見ると、一部の洗脳されやすい単細胞な人たち(もちろん世論工作をする人たちが紛れ込んでいるはずですが)が報道の内容を検証もせずに鵜呑みにし(今はネットもあるのです、少し慎重に調べれば色々な情報が得られるはずですが)、そしてその鵜呑みにした人たちの疑いのない危うい確信に引っ張られ、その周辺にいる多数のこの戦争の中味が良く分からない日本人が横の人の反応をチラチラ見ながら「そうだ、そうだ、プーチンが悪い、ロシア人が悪い」とシュプレヒコールを繰り返しているように、どうしても見えてしまうのです。

まあ、ロシアが攻め込んだのですからロシアが悪いのは確かなのですが、物事はそんな勧善懲悪的な単純な構図ではないのも確かです。

 

そして、このような横の人の反応をチラチラ見ながら寄らば大樹の陰のごとく一心不乱にロシアの悪口を言っている人たちは、自分の行動に不思議な自信と確信をもっていて、またその数も本当に多いのです。

恐らくみんなと同じであるということがその自信のもとになっているのでしょう。

 

それに対して少数でありますが、自分の心に浮かんだ違和感に正直に対応して自分で調べてみて(あるいはもともと教養があって)、もしかしたら「ん?ウクライナ政府もかなりヤバいんじゃないか!ということは今の報道もヤバいっていうことでは⁈ 何で?あ、そうか、今のウクライナユダヤ系ということで同じくユダヤ系の国際金融資本の裏の金の資金洗浄の場になっていたようだし、この金融資本がバックにいる今の(日本を含む)報道機関は、もしウクライナがロシアに実質的に占領されて不都合なことが暴かれたら親分が不味いから必死にフェイク情報を垂れ流しているのかもしれないね、ということはロシアペースでウクライナ戦争が収束したら、こりゃこれまでの金融体制は吹っ飛ぶかもしれないぞ、で実際はロシアペースのようだし、これは歴史的な情報開示と(ロシアの恐ろしい台頭を含む)大転換期を呼び起こすパンドラの箱が空くかもしれないぞ、ということはいよいよもうこれまでの常識が通用しない次の時代がくるな!」などという地点に漠然とではありますが到達している人も、それなりにいるようなのです。

 

そうです、ワクチン騒動の最中(今でも続いていますが)にも書きましたが、ここでも2極化がテーマになってきているのです。

 

そしてこの心持ちの2極化が本格的に各自のこれからの人生の明暗を分けていく目に見える影響を与え始める、そんな近未来がこのウクライナ戦争の勃発を通してリアルに見えてきた、というのが今の私の正直な感想です。

 

これからは横だけ見ていてはいけません。

世間やこれまでの一般常識に無防備に従ってはいけません。

テレビに出てくるこれまで人気のあった権威や専門家や有名人の言うことは、むしろ時代遅れであるかもしれないことを肝に銘じなければいけません。

 

自分の周囲も注意深く見ましょう。

特にこれまで馬鹿にされてきた世間の常識から少し外れた人を見直してみましょう。

そして何よりも大切なことは、自らの奥底の心を見つめ直し、その心に正直になることです。

仮に現実にはその心に正直に生きることが今は難しいとしても、その心からの情報は大切に育むことです。

 

今や、面に見える今までの情報源と、目に見えない「自らの奥底の心」からの正直な情報源の両輪が、本当に必要な時代になってきたということなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日から2022年の本番が始まります

2022年に入り、早いもので今日は2月3日節分です。

旧暦で言えば、いよいよ今日から新年です。

 

ところで、前回のブログでも触れましたが今オミクロン株の蔓延に加えて、ロシアを中心とした緊張した国際情勢、バブル崩壊の足音がますます高くなってきた金融情勢、モノ不足等々、昨年末からこのブログで再三触れてきた世界的な流動状況がようやく見えてきたようです。

 

今後これに加えて、ワクチンに関する情報開示が続き、更にアメリカをはじめとする欧米のいわゆる先進国と言った国々でのインチキが次々と露見してくることになると思われます。

 

この中で日本も他人ごとではありません。

 

日本の国内でも、未来に向けて展望を持てない、国や地方の行政あるいは年金や医療などの公共性のあるサービスが当てにできない等々、これまで盤石と思っていた自らの生活の基盤への信頼が砂上の楼閣のように消えていく感覚に襲われる人々が、今後大量に出てくることが想定されます。

 

ではどうしたら良いのでしょうか。

 

その答えはある意味簡単です。

 

私達が草の根で生活自警団を形成していくのです。

そして力は弱ったとはいえまだ頼りになるところも残っているであろう行政とも連携しながら、新しい助け合いのコミュニティを構築していくのです。

 

そうです、私が昨年このブログで書いた「誰も生きて死ぬことに不安のないコミュニティの創造」を心ある目覚めた人々を中心とした草の根の協力により、この新しいコミュニティを創っていくことが、文字通りのサバイバルのために必要になる時代がもうすぐ近くにやってきているということです。

 

そしてそのためのキーワードは「助け合いと希望」なのです。

 

私が年初に今年のキーワードとして「助け合いと希望」と書いたのは、綺麗ごとのお題目として書いたのではなく、私達が文字通りサバイバルするために必要だから書いたのです。

 

またいつも書いている「土地親和論」の提唱も、この助け合いコミュニティを創造するために必要であるから書いているわけです。

 

とは言え2022年以降の激動はまだ序の口。

何が起こっても早く冷静になるように勤めるということが必要だということを、改めて肝に銘じておくことも大切であるのは言うまでもありません。

 

(備考)

土地親和論とは

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」

巷ではコロナのオミクロン株の蔓延の話しで持ちきりです。

巷ではコロナのオミクロン株の蔓延の話しで持ちきりです。

 

欧米では昨年の11月くらいからオミクロン株が猛威を振るっていましたが、日本では昨年の間はコロナそのものの感染者も少なく、そもころの日常会話では「日本人はマスクはするし、手洗いもするし、清潔だからね。それに比べて外国はマスクもしないし不潔だからこんなことになるんだよ!」などと(マスク越しでもわかるくらい)したり顔で話しているオヤジやおばさんが実に多く見受けられたものです。

 

でもこんな会話を聞いた時に私は心の中で思っていました。

「違うんじゃないかな!欧米人の方が日本人より2~3か月くらい早くワクチンを打っているからワクチンの効きが低くなるのも2~3か月早いので、一足先に感染者が増えているのじゃないの?欧米がこの調子だと、日本も年明けから結構増えると思うよ!」と。

 

で、現実は残念ながらその通りになってきてしまいました。

 

でも、当時もちろんこのことを口に出しては言いませんでした。

 

なぜなら、昨年ワクチンを打った後ぐらいから、コロナで口から泡を飛ばして持論を念じているおじさんやおばさんの中で、反対意見に対してやけにけんか腰で反論する人が増えてきたからです。

 

これ、特に最近凄く目立ってきたように感じます。

 

長い間コロナで気が滅入っていますので仕方がないことかもしれませんが、今世の中を見渡せばコロナ以外にもロシア、ウクライナカザフスタンベラルーシポーランドなどでの緊張や金融市場の乱高下、物資や食料の不足など、不穏な状況がいよいよ本格化してきています。

 

確かにオミクロン株の蔓延は個人レベルで最大限の警戒と対策をすべきですが、反面オミクロン株の弱毒化を囁かれています。

 

ここはコロナの現状について(テレビだけにかじりついているのではなく、また医師のいうことをただ漫然と真に受けるのではなく)自らが能動的に色々と情報を集める努力もしながら、コロナに対して正しく恐れるということに勤めるべきでしょう。

 

それと同時に、コロナ以外の現在起きている様々な事案に対しても自分なりに情報を収集することをおさおさ怠りなく行うように勤めなければなりません。

 

そのためには、自分に都合の悪い情報も直視する勇気を持ちながら、かつ冷静に物事を見ていくことに腐心する必要があるということです。

 

そしてそのためには、年初このブログでも書きましたが、この世の執着を「棄てる」、「明るく前を向く」という心持ちがますます重要になってきているということです。

 

頑張って、この冬を乗り切りましょう。

2022年が本格的に始まりました (後編)

今回のブログでは前編のブログの続きとして、大きな「時」の巡りの中での価値観の変化を背景としたこれからの人々の生き方や社会の方向性について考えてみたいと思います。

 

まず、私が考える「今私たちに必要とされるキーワード」が2つあります。

 

一つは「棄てる」ということです。

 

価値観が変わるのですから、従来の価値観に沿って行ってきた諸々のモノやコトの内、必要のないものは全て「棄てる」という意識と勇気を持つ必要があるということです。

 

また「棄てる」ことによりこの世への執着が薄まり、結果として自らの心の変化や世の中の移り変わりをフィルターなく見ていくことが出来るようになります。

世の中が大きく変化する時には、この情報キャッチ能力は不可欠になります。

 

当然何を「棄てる」かについては、個人個人によって違いますが。

 

二つ目は「前を向き、助け合う」ということです。

 

みずがめ座という新しい時代の空気を背景に、お互い個性を認めつつ激動する時代の中で励まし合い助け合うということです。

 

そしてこの根幹は「正直で情のある情報の共有」ということになろうかと思います。

 

巷でこれまでさんざん言われてきた「これからは情報の時代」の意味は、既存のマスコミや強大な情報産業が思い描く「ビッグデータの収集と分析と宣伝と誘導と行動管理」に満ちたようなものではなく、むしろ個人個人による情のある正直な情報の融通であると私は考えています。

 

こうした情報こそが、今や人々の深層の心理に変化が訪れ、自らに起こったその変化を感じることの出来た感覚のいわゆる進化した人々にもろ手を挙げて歓迎されることになるでしょう。

 

そして、そうした正直な情報のやり取りを通じて、人々は励まされ、助け合い、前を向き、新しい価値観に伴う「精神と物質の価値観が健全にバランスした」新しい社会やコミュティの創造へと本格的に向かって行くという、今年は希望に満ちた船出の年にもなるのではないかと感じています。

 

ただしそのためには乗り越えないといけない難題があります。

それは、自分自身の本当の心の価値観の変化を素直に認め、それを受け入れることが必要になります。

これはことと次第によっては自らの既存の社会的価値を一部否定することにも繋がりかねないことですので、苦しいことです。

また従来の価値観に凝り固まってしまいもはや自らの心の変化を感じ取れない、またはこうした変化を恐れるあまり自分に対しても他人に対しても徹底的に押さえつけようとする人々も限りなく出てこようかと思います。

 

これが2極化ですが、今人々の深層の心の中で訪れている変化はもはや人の力ではどうすることも出来ない「時」の作用です。

ですからこうした2極化の障害も乗り越えて私達は新しい社会の創造へと進んでいくということになるのです。

 

今年がそうした創造へのまずは一歩ということになろうかと思います。

 

ですから、年初のブログで書きましたが、今年の私のブログのテーマに「助け合いと希望」ということが多くなるかなと考えた次第です。

そしてこの流れの中で「土地親和論」を提唱していきたいと思っています。

 

 

(備考)

 

「土地親和論」を以下のように提示します。

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」