土地親和論 ‐ オリンピックの開会式を見て感じた統合の意味(その1)
今、東京オリンピックが佳境に入っています
日本選手も地元の利を十分生かして大変活躍しており何よりです。
コロナの感染者が増える中、閉幕するまで何とか無事に続けることが出来ることを心から願うばかりです。
ところで、オリンピックの協議日程が進む中、皆様方の中でも早くも忘れ去っている方もいらっしゃるかもしれませんが、本日は開会式について少し考えて見たいと思います。
オリンピックの開会式、テレビやネットを通じて見られた方も多いかと思いますが、開会式
如何だったでしょうか。
このブログでも何度か触れましたが、オリンピックの開会式については、リオメンバーの交代や開会式直前の騒動等、色々なことがおきました。
私の中では、まずは無事に済んで良かったということです。
また、大変な中苦労された関係者、特に裏方さんのご苦労は如何ばかりなものであったかと思いが巡り、頭が下がる思いでありました。
ともかくこの頑張りは称賛されるものと思います。
しかし、一方専門家や世間の評価では必ずしも芳しい意見ばかりだったとは言えない状況です。
式の中における一つ一つのいわゆる出し物についても、かたや称賛されているものがある一方で?マークがついているものもあります。
そんな中、私が一番気になったところは開会式における日本の立ち位置についての解釈のあいまいさ、いや問題意識の希薄さでした。
私が見た(数は多くない範囲ですが)開会式に対する諸々の分野の論評の中にも、私が気になった部分を指摘しているもの見受けられました。
それでは、オリンピック開会式で私が気になった日本の立ち位置とは何か?
それは、東洋と西洋の接点としての日本という視点に欠けていたのではないか、ということです。
続く