鈴木 優 土地親和論

鈴木優は、「土地親和論」を提唱し次世代における新しい社会創造のためには「地と人が一体であること」を実感することの大切さを説く。不動産鑑定士。不動産コンサルタント。

土地親和論 ‐ オリンピックの開会式を見て感じた統合の意味(その3)

私がオリンピックの開会式に関する論評で一番心に残ったものは、音楽でもっと日本オリジナルのものや日本的演出を使っても良かったのではないかということです。

論評で指摘されている該当部分としては、イマジンを使用したことやその時の映像、長嶋氏が走っていた時の曲選定等々あり、また音楽以外の演出でもタップダンスの使用などが挙げられています。

またテレビ局の寸劇については日本芸能界の楽屋受け身内芸などとして、逆に日本的すぎるとして批判をしている向きもあります。

全て、日本という場における日本感と西洋感のバランスが取れていないということになります。

もちろんそれぞれ意味があって採用していることはわかりますが、この開会式において妥当であったかどうかという側面では色々な評価が出てくるということです。

 

因みに、では一般的に好評のドローンはどうかという指摘が出てくるかもしれません。

私の中では、ドローンという西洋的な機械を使った日本チックな繊細な職人芸の融合(実情はどうかわかりませんが、少なくとも見た目からくる印象はそうなります)という風情があり、東洋と西洋の接点としての日本の見本みたいなものに感じられています。

 

では何故日本の立ち位置が東洋と西洋の接点であることを強く意識しそのことを周りに臆せず忖度せずもっと表現しなかったのでしょうか。

 

私は、というより私以外でも言っている人は多いように感じられますが、この開会式を作った人たちにそもそも日本が東洋と西洋の接点であるという意識が曖昧あるいは希薄だったのではないかと思います。

 

例えば評価の高いリオ五輪委おける日本の紹介セレモニー、今見ても疾走感にあふれ恰好良いのですが、そこにあるのはモダンとレトロが共存する日本です。

そうモダンとレトロが共存するつまり西洋的なモノと東洋的なものがごちゃまぜでありながらどこか底辺で統合されている感じが出ている、だからそれらの総体としての近代日本文化はクールと言われるのです。

そして海外も日本にはそれを期待するのです。

いわば東と西のミクスチャーであることが日本でしか発することの出来ないオリジナリティーを生み、それが日本の強みとなっているのです。

 

何故か。

その答えは、そのような東と西のミクスチャーが庶民レベルで無意識に出来る民族は、今のところ日本しかないからです。

何故なら、日本人の多くが西洋文化を先進的な憧れの文化ではなく、生まれた時から常にある便利なツールとして見ることが出来るからです

また、同じ東洋の韓国や中国と比較するとどうでしょうか。結論としては、韓国も中国もまだ社会の発展からそんなに時間がたってなく、日本のように社会全般的に庶民レベルで東と西のミクスチャーをこなすという状態には程遠いと言えます。

もちろんこれには中国や韓国に対して日本は、その背景となる文化や歴史が違っているという要素をあることは言うまでもありませんが。

いずれにしましてもミクスチャーの文化こそ他のどの国も真似し難い日本の強みという解釈になります。

 

ただ日本も年代的な問題から、私達より時代が下るにつれ明治の人たちが周りから消えていき、結果日本的なものと西洋的なものを対峙させるという機会が失われて来てしまったということも言えます。

特に日本の今の若い世代は、昨今西洋文化に衰退が見られることもありそういう傾向が強くなっているようです。

その結果東と西の相対化が出来なくなってきているのではないかということを個人的には感じています。

 

今回の開会式においては、この傾向が出てしまったのかもしれません。

そしてそこのところに、東洋と西洋の接点としての日本という立ち位置の価値に敏感な人達が違和感を持った可能性があります。

なぜなら日本のオリンピックの開会式は、世界は皆友達等々というような平等をうたっていたとしても、日本のすばらしさを世界の多くの人々にアピールできる絶好の機会でもあることは疑う余地のないことだからです。

「ともかく大変な中でみんな頑張ったのだから文句言うなよ、シャンシャン」で軽々に片づけられないという思いが日本そのものの価値に敏感な人に出てきても当然なのです。

 

続く