土地親和論 ‐ 割り切れないものを割り切ってはいけない進化論(その1)
物事には割り切れないものが数多くあります。
しかしとかく物質的な価値観を神格化し物事の見える化にこだわるこの(特に最近の)資本主義の世の中では、割り切ることが難しいものを数値化して多くの人々に見える化する方が、結果そのものの評価がしやすくなるし使い勝手も良くなるという側面があります。
例えば人間が賢いかどうかの判断は、本来どの視点から見るかによっても変わるでしょうし環境や時代背景によっても変わると考えるのが当然なのですが、現代ではIQとか偏差値等の数値を拠り所として判断するというのが一般的です。
高学歴だからその人は頭が良いなどということを人々も当事者も当然のこととして受け入れてしまうというのはその典型的な例です(今回のワクチン騒動を見てもお判りのように、実際は高学歴の人でも確かに勉強は出来るかもしれませんが反面精神的には未成熟で幼稚で賢くない人間が数多くいるようですが)。
資産価値がある不動産などもその典型的な例となるでしょう。
私がその資格を持っている不動産鑑定士などはその数値化の真っただ中にいると言えます。
更に現在では物事を評価するために数値しか見ないという人さえいます。
特にビジネスの世界では意思決定や事後評価に当たって常に具体的な数値が求められるというのが一般的になっています。
成果主義哲学の浸透した現代ビジネスの世界では数値こそ正義というところまでその支配力を高めているのです。
いやこの傾向はビジネスの社会だけでなく一般社会でも同様です。
日常よく見る広告や商品説明を見てもわかる通り、物質的価値観偏重の現代社会ではいたるところに数値化が浸食しており、また多くの人々も数値をその評価の拠り所としているというが現状です(かく言う私もその一人ではあるのですが)。
では数値化そのものの効能はどうかというと、それは確かに大きなものがあることは間違いありません。
例えば研究の過程とか行政でマスの趨勢を見る時とか、数値化することが非常に有効であるものは数多くあることは皆様方も良くお判りかと思います。
しかし現在ではその弊害も出てきているようです。
現在では数値正義が行き過ぎて何事も優良な数値が求められるようになり、本来物事を評価するための一つの道具であったはずの数値が、今やその意味を超越し数値そのものつまり良い数値を得ることが目的という地点まで進んでしまっているようなのです。
そしてその結果数値しか信じない、良い数値があれば疑いもなく信じてしまう、という人も多く出現している事態となっています。
数値が全知全能のお墨付きになっているのです。
更に数値の中には専門的なものも多いですから、そのお墨付き役として専門家という方々が出てきます。
私もその端くれである不動産鑑定士も鑑定評価というカタチで不動産の数値化にお墨付きを与えているとも言えるでしょう。
まさに数値こそが万人に平等に民主的にそのものの評価を見えるようにした公平な指標、正義ということになったのです。
あらゆる人の拠り所、信仰の対象になったとも言えるでしょう。
ところがその当然の結果として数字の改ざんやごまかしが横行してきます。
こういったものに対して法律や規則で縛っていこうとしてきていましたが、昨今のネット社会の進展によりアンダーグラウンドの情報が一般社会に露呈し始めた状況の中で、今までならば隠し通せたかもしれない行政や企業による数値の改ざんが相次いで表面化しており、またワクチンでお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが専門家と企業の癒着による恣意的数値のお墨付きというものも徐々にその姿を現しているというのが現状です。
昔のお隣中国の宮廷を舞台にした歴史小説風に言えば、数値という皇帝を帝(みかど)自らの命(めい)として御簾(みす)の奥に隠して重臣たちに直答(じきとう)を許さず、本来帝の身の回りのお世話役に過ぎなかった取次役の専門家Aという宦官が権力を思うがままに壟断(ろうだん)してきたが、どうやらその行く末に綻び(ほころび)が見えてきた、といった具合でしょうか。
このようなこれまで比較的社会的信用があると考えられてきた機関による数値の不正が表面化してくるということは、それだけ社会の腐敗が進行し権威の信用が揺らぎ現在の社会体制の行く末に限界が見えてきたということの反映であると私は解釈しております。
今回のコロナとワクチンの一件は、上に書いたような側面を図らずも見事に浮き彫りにしたと私は見ているのですが、皆様は如何お感じでしょうか。
ところで、これまで書いてきたこと何か変ですよね。
数値という虚像ばかり出てきて、実像が出てきません。
続く