鈴木 優 土地親和論

鈴木優は、「土地親和論」を提唱し次世代における新しい社会創造のためには「地と人が一体であること」を実感することの大切さを説く。不動産鑑定士。不動産コンサルタント。

土地親和論 ‐ 土地親和論を個人生活にどのように生かせるか考えてみた(その2)

昨日のブログの続きになります。

 

私の心の閃きにより「地と人は繋がっており一体です」ということを実感したことにより、どのような変化が現れたかについての話しから始めます。

 

心の閃きにより「地と人は繋がっており一体です」ということを実感しますと、これまで見えてなかった「あらゆるものが無数の糸状のもので繋がっているような状態の」目に見えない世界が私の周りに充満しているという実態を感じるようになってきます。

そうすると、私が従来の「目に見える世界」と閃きにより得た「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」の二つの世界にまたがって生きているということを体感するようになってきました。

その結果何を実感したかを以下箇条書きします。

・ 「目に見える世界」では価値観が薄くても、「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」では価値があるものがあるということ。

・ 親切、誠実、生きがい等の目に見える世界での精神的価値は、目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界ではけた違いに大きな価値があるようだ。

・ 私の経験から「目に見える世界」と「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」は私の行いや心の状態を通してお互いに影響しあっているようだ。

・ その結果、「因果応報」は本当のようだ。ただしその実現には時間がかかるが。

・ 「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」を実感することにより、

「目に見える世界」の価値観における執着が薄くなった

・ ただし「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」も「目に見える世界」もどちらも大切であり、「目に見える世界」の価値観で執着を持つことは悪いことではない。

しかし、その執着に捉われることは視野が狭くなり良くない。局面によっては一旦その執着を捨てたり薄めたりすることも必要である。従って「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」を実感することによりその「執着を薄める」ということがしやすくなった。

・ それにより人生において選択肢が増え、また目に見えるこの社会の中での不安も減って来た。何故なら私には「目に見えないが心の中では生き生きと実態のある世界」も価値があることがわかってきたから。

・ 結果、視野が広くなった。また生きているという実感がむしろ強くなり、自分が何のために生きているかという真理の探究がしやすくなったように感じる。

ざっとこんな感じです。

結論から言いますと、この世で「捨てる」ことが出来るようになり、また「視野」が広がり、自らが生きているという実感が強くなったのです。

 

その結果箇条書きには書かなかった重要な感覚が生まれてきました。

一周回って、改めて私は全体と繋がっていて孤立していないという感覚です。

ただし以前とは違います。

その全体の中心に、一本バランスを取る柱があるのです。

9月7日のブログでも書きました「真なる万物の共生という」一本の柱です。

昔の人はこのことを「天」「神」と呼んでいたのかもしれません。

ともかく、この目に見える世界と目に見えない世界のバランスを取る柱は確かにあります。

 

因みに私がこの柱に対して、普段は私達には全く接点がなく関心もないかのように感じますが、実は常に私達と共にあり私たちのすべてを知っていて何かのきっかけで時として私達の運命に介在してくる、そんなイメージを持ちました。

ですので、例えば「因果応報」もここから出てきていると感じました。

つまりちょっとした人への優しさや気遣いの蓄積が、この目に見える世界に思わぬ大きな成果をもたらすということをありうるということです。

当然その反対のパターンも。

 

私達は目に見える世界と目に見えない世界のバランスの中で生きているということなのでしょう。

そして私の感じるところ、どうも両者の間の主導権は時として運命をも動かしてしまうバランスを取る柱の存在に近いところにいる目に見えない世界の方にあるようです。

ですから、いくら努力を重ねても人生が極まってしまった時、むしろ舵を放して自らの心の選択に腐心しながらこの「天」とも「神」ともあるいは「サムシンググレイト」とも言われることもあるこのバランスを取る柱に委ねるということも、時としては必要になる時があるということです。

人事を尽くして天命を待つ、とも言いましょうか。

そしてこうした心持になった時、バランスを取る柱あるいは「天」による恵みか、時として紆余曲折があるにせよ絶妙の展開を伴って何かしら良い方向へと物事が動き出すということも、古来より面々と語り継がれてきたようにありうるということでもあります。

「神様」のお恵みとも言いましょうか。

 

私達は皆バランスを取る柱、つまり昔人々が「天」と呼んでいた何かと糸で結ばれています。

ですから上で言いましたように時にこの「天」に委ねるということも必要になる時があるのです。

特に目に見える世界の情報だけでは何とも判断がつかないときに。

この目に見える世界では嘘の情報、虚像を実像として信じてしまう、などということも日常茶飯事でおきていますので。

ですから、繰り返しになりますが時として「天」に委ねるということも必要になるのです。

でも、いくら「天」と繋がっているということを自覚したとしても、やはり舵を放してしまうのは不安がありますよね。

私も不安です。

ですから、舵を離すなら尚更、この目に見える世界の中においても目に見えない世界の流儀を意識して、綺麗ごとではなく本心で正しい行いとか清い心を心掛けて前向きに生きていいきましょうということです。

これが、私は実感したバランスです。

(すみません、ここまで偉そうなことをツラツラと書いてきましたが、私自身まだまだ俗世の我欲や執着に悩まされてなかなか上手くいきません。しかしこのことこそが人生のだいご味なのかもしれませんが。)

 

ここまでくればもうお分かりかと思いますが、現代社会に生きる私達は往々にして目に見える世界の価値観つまり物質的価値観だけでは心の視野が限りなく狭くなり、結果この視野が狭いという無意識の自覚からくる心から拭い去ることの到底できない不安が常に生じてしまうということです。

そしてその果てに、このどうしようもなくどこからともなく忍び寄る不安を解消するために、更に物質的価値を追い求めるという不毛な循環に陥ってしまいます。

また物事が見えているつもりでも実は近視眼的で見えていないということが起こることにより、計算通りにいかないという判断の誤りも多く出てくるのです。

現代社会ではこのようなトラブルが頻発していると言ってよいでしょう。

物質的価値を追い求めていますからこの物質面だけで人の成功を判断しがちな現代社会では周囲から一見成功者のように見えていますが、その実その一見成功者の心の内実は常に不毛な飢餓感に見舞われておりまた存外その末路も哀れであるということも少なくないのです。

 

その時もし土地親和論によりもう一つの世界の存在に触れバランスの柱に幾ばくかでも近づくことが出来れば、目に見えるこの世で心地いい「程々」の所有ということで心が満足できるようになるでしょう。

なぜならこれ以外に目に見えない世界でも宝を所有し、結果として二か所から満足を得ることが出来るようになるからです。

目に見える世界と目に見えない世界のバランスを得ることにより、この目に見える世界で心が充足できる本当の物持ちになることが出来るのです。

決して贅沢ではないけれど背伸びしない等身大のモノやコトを使って本当に楽しい時を過す、などということが極々自然にできるようになるのです。

まさに、精神と物質のバランスが取れ充足感に満ちた状態に至るとでも言いましょうか。

 

私は、このことを人の「目覚め」であり「進化」だと思っています。

 

二つの世界に触れる入口の一つとして、私は引き続き「土地親和論」を提唱していきます。

 

 

(備考) 

 

土地親和論とは

 

「地と人は繋がっており一体です」

したがって、

「これからは、人はそれを自覚し、地に足を付け、地に感謝し、地を清め浄化し、また地から必要なものを豊かに恵んでもらい、地やその元である地球のありとあらゆる生命やモノ・コトと助け合いながら、また人々も助け合いながら生きていくという哲学を基盤として、新しい社会やコミュニティを皆で知恵や工夫や情報を出し合い創っていきましょう」