横浜市長選から見えてくる次世代社会の可能性
昨日横浜市長選挙がありました。
結果は立憲民主党や共産党等の野党が押していた山中氏の圧勝でした。
菅首相の押していた小此木氏と前職の林氏は完敗といったところでしょうか。
私は横浜の近くで生まれ育った関係もあり横浜市長選にはそれなりの関心もあり、また多少の予備知識も持っていたつもりでした。
選挙が始まる前は、恐らく小此木氏が勝つのかなと漠然と思っていたのですが、お盆を過ぎたあたりで山中善戦の情報が一般に出だしたあたりから、一挙に雪崩が起きたように見え正直驚きました。
そして反小此木反林の票が、山中氏に集中したと。
極論すれば山中氏の獲得した票の中には、小此木氏や林氏、特に現首相たる菅氏が後ろ盾の小此木氏を落とせるなら、あるいは自民公明の現政権に打撃になるなら、誰でもよい勝てそうな候補に票を入れようという人もかなりいたのではないでしょうか。
当初はどうせ予定調和の結果になるんだろうと白けていた人々の中でくすぶっていた怒りが一挙に噴き出してきたような感じです。
このように白けていた人たちは、今の政治に対してだけでなく、これまで何が起こっても羊のように大人しかった一般国民に対しても不信感と無力感を持っていて白けていたのではないかと思われます。
それが横浜市長選の事前の世論調査により自分たちと似た思いの人々が思いのほか多くしかも今回はこれらの人が具体的行動に出ようとしている、従って自らの行動も無意味ではなくなる、では行動しよう、という思考パターンを持った人も多かったのではないでしょうか。
今回の結果は以前の自民党総裁選の小泉フィーバーや郵政選挙、民主党大勝の衆議院選挙、その後の民主党大敗の衆議院選挙を髣髴とさせます。
どの選挙も、その背景に民衆の怒りがありました。
あるものは古いことへの怒り、あるものは既得権者への怒り、あるものは腐敗への怒りあるものは嘘つきへの怒り、そして政権の無能力への怒りといった具合であります(この場合、現実その通りだったかは問題ではなく、そのように民衆の目に映っていたということが問題であったと解釈すべきであるように思えますが)。
今回も背景はやはり怒りでしょう。
コロナに対する対応の不味さが直接の原因であるのは間違いないでしょう。
しかし今回はこれまでの怒りとは少し様相が違うかもしれません。
これまでの怒りは、怒った人たちはほぼ同じ思いで怒っていました。
しかし今回は怒りが分断されているようなのです。
分断の一つは、コロナ行政に対してです。
これに対して、コロナワクチン接種をしたいがその対応が遅れていることに怒っている人と、コロナワクチンの接種を推進している政策に対して怒っている人がいるのです。
もう一つの分断は、そもそも自民公明政権へのトータルの評価に対してのスタンスです。
具体的な内容としては、前政権以降の諸々の政策への低い評価のみならず様々な不正、腐敗、情報操作の露見、等々に対してたまった怒りが出てきたということになります。
しかし今回山中氏に投票した人の間には、心の底から怒っている人がいると思えば反面自民公明にお灸的な感覚の人も多くいたでしょうし、上に書いたようなことに対する怒りには温度差がかなりあったのではないかと思われます。
そしてこれらの怒りがコロナを契機として複雑に絡み合いながら一挙に表出して来た、というのが今回の選挙だったように見えます。
実はこの兆候は先月の都議選で実は既に色濃く出ていたとは思うのですが、低投票率がその深刻なさまを関係者や一般庶民には薄めて見せてしまったように思います。
が、今回は誰の目にも見える形ではっきりと出てきました。
そしてこの結果を全国の潜在的に怒れる人たちは見てしまいました。
今度は森が動くかもしれないと。
次の衆議院選挙も自民党総裁選の行方と連動しながら混乱しそうです。
しかし、もしこれまで書いた私の横浜市長選の結果に対する感想が多少でもあっているとすれば、これから日本は当分混乱するかもしれません。
なぜなら、怒りの内容が分断されているからです。
もし民衆の怒りの内容はまとまっていれば、それに対応する次の候補は意外と容易に見つかるかもしれません。
以前の民主党や安倍自民のように。
しかし、今回はそのような単純なことではないでしょう。
仮に次の候補として衆議院選挙で立憲民主党が選択されたとしても、従来の政策感覚だけで分断している怒りをある方向にまとめていくのは難しいでしょう。
また自民公明が引き続き政権を維持したとしても、もし基本現状踏襲で進めば次の政権瓦解は自民党内の混乱を起因として早晩起こってしまうかもしれません。
ではどうしたら良いでしょうか。
これからはあくまで政治に無関係な私の独り言です。
今の怒りが分断されているということは、今の与野党の政策の対立軸が人々の無意識の在り方からずれているということと思える。
その理由は、人々の無意識の志向が恐らくコロナ以降変わってきてしまったから。
これまでの物質偏重の価値観から精神と物質のバランスを取ろうとする価値観へと変化していく流れが始まっていると。
その結果、精神と物質のバランスを取るため勢い心の活動が活発に働き始めている人が出てきている。
しかしその変化は始まって間も無く、まだまだ旧態依然とした唯物的な人が主流である。
とは言え、またそんな旧態依然な意識世界にいる人の中でも違和感を持ち始めている人が出てきている。
そんな感じなので、そもそも人々の怒りも含めた思考の方向性が以前より比べ物にならないぐらい分断され混乱しているのは致し方のないことであり、この事実を前提として物事を進めていかないといけないのではないか。
ですからまずは人々の無意識の変わっていく方向性に合わせた次世代のビジョンを出していくのは一つの選択肢になるのではないかと。
といった感じです。
ではビジョンは何か。
ここでは、あくまで私の勝手なビジョンを書きます。
私は手前みそになりますが「土地親和論」にあるようなビジョンということになろうかと考えています。
当然これが現存する社会で活動する政党の柱の政策になりえません。
しかしこのビジョンに何らか共鳴する人は、今10に一人くらいはいるような気がしているのですが。
もしこの10人に一人の間で共通の緩い市民的で草の根的な繋がりの道筋をつけることが出来たとすれば、無意識の鈴により徐々に周辺の人たちもこの緩い繋がりに参加し始め、時が経ちやがて大きな川になります。
このような過程を経る必要があるのではないかと私なりの仮説を立てているところです。
この方法が現在の政治制度に馴染むとは到底思えませんが。
すなわち私はもはや政治ではなく次世代の社会やコミュニティのあり様の話をしている、ということになろうかと思いますが、次世代の社会を模索し構築していくには意外とこの道筋は有効なように、一人秘かに感じている次第であります。
とろこでまた話を戻しますが、忘れていけないのは一部の人にとって怒りの対象は今の政治だけではないということです。
コロナを起因として「一部または多数」のマスコミ、医者、研究者、企業、大学、公務員(国も自治体も)、芸能人や有名人、等々これまで権威とされたりそれなりの信用や親密さが感じられる存在であったものに対して、裏切られたという怒りが蓄積されていることは紛れもない事実です。
これらの人たちの中で身に覚えのある人たちにとって、政治の転倒は他人事ではない可能性があるということになるのです。
このことは、これからの混乱が政治のみならず、社会全般に及ぶ制度や既得権益の変動を伴うものになることを示唆しているかもしれません。
この先昭和20年の終戦後のような闇市経済の大混乱期を経て、次の世代への社会の再構築が始まるといったこともありうるということです。
この場合生まれる次世代社会の姿は、現在とは一変していることでしょう。
毎度同じことを書きますが、このような見通しの悪い時に必要なのは心の静寂です。
やはり自らの心がキーマンなのです。