厄介な「らっぱ達」に対抗せよ!〜五感を働かせる(その3)
昨日の続きです。
何故私がこのらっぱに気が付いたのかと言いますと、現在のらっぱはもっぱら金のために動きまわっており、いわゆる隠密活動の素人同然の人間が(自らの命がかかっていないので)かなり杜撰な形でらっぱ活動をしているように見え、この私の目にも何かとあからさまに映り発見しやすくなっているからです(ですから、当然私以外にも気が付いている人は大勢おりますが)。
またネットやSNSの発展により、らっぱ業に上で書いたようにほぼ素人でも参入できるようになり、また反対にネットやSNSよりらっぱがどこでどんな活動をしているかについての情報が得やすくなっています。
その結果客観的に見ても、以前に比べると遥かにらっぱの存在を特定しやすくなっているのは、間違いないと思います。
その結果感じたことは、最近はこのらっぱにかなり頻繁に出会うということです。
芸能関係、特に音楽関係では、ともかくらっぱだらけなのではないでしょうか。
どうやら、現在はこのらっぱを使うことが常識となっているようなのです。
そしてもう一つ気になるのは、目につくところでらっぱだらけであるなら、もっと巧妙で目につかないらっぱも数多くいるのではないか、ということです。
それも、恐らく昔から。
その存在が、ネットの発展とともに目に付く形で露見してきているようだと。
要するに、見えるところ、見えないところ、らっぱだらけなのではないかということです。
昨日も書きましたが、このらっぱ達は私たちの潜在意識も含めた五感に訴えかける色々な手法を駆使しているのではないかと推測されます。
何故ならば、それ以外に私達にアプローチする方法がないと考えられるからです(もちろん、先端技術で想像を超える方法は出てきているかもしれませんが、そういった方法が私たちの日常領域で一般化して使用されているとは今のところ考えづらいです)。
では、現代のこのらっぱ達に対抗するにはどうしたら良いのでしょうか。
その答えは、上杉謙信のような第6感の情報を使うということかと思います。
もちろん上杉謙信はただ単に超能力者のように第6感だけを使ったのではなく、恐らく5感の情報を総合し更にそこから出てくる何らかの原初的な感じを統合して判断していたのではないかと私は思っています。
いわゆる直感や違和感のようなものも重要視するということかと思います。
もしかしたら私たちは、この近現代西洋的な合理思想の中で、物事を細分化して分析することに慣れすぎ、反対にこの直感や違和感は軽視しすぎているのかもしれません。
現代のらっぱ騒動は、大げさに言えば私たちの「バランス」を再考する良い機会になるかもしれませんし、また言い方を変えれば私達が「バランス」を取り戻す(取り戻さざる負えない)時代が来たのかもしれないのです。
このことについてもう少し考えてみたいと思います。
続く